宝塚歌劇 星組公演

脚色 演出植田紳爾 作曲 編曲吉田優子 振付 花柳芳次郎 若央りさ
装置 関谷敏詔 衣装 河底美由紀 照明 勝柴次朗 演技指導 美吉左久子

榎本慈民作「江戸無宿」を植田紳爾が宝塚風に脚色・演出した、
宝塚ミュージカルロマン
「長崎しぐれ坂」を見た。
今やオリジナル作品はじめ舞台の貧困を感じさせる宝塚歌劇、
植田紳爾はそれを感じているのかどうかは判らないが、
新聞劇評の言葉を借りるなら<良質の人情芝居>
私流に言えば宝塚風に男臭い物語を、
男女の愛と男同士の友情で上手く纏めた芝居と見受けた。

第一に感じたのは、轟は杉良太郎風、湖月は石原裕次郎風、では壇は北原三枝?となる。
植田紳爾の芝居作りの巧みさは、組子をよく見てその個性の使い方、
つまり本当の座付き作者の本領を出すからだ。

今回轟扮する悪党伊佐次、湖月の岡引き卯之助、壇れいはこれで退団だが芸者おしま役、
英真なおきの居酒屋の親父、万里柚美の伊佐次の愛人、安蘭けいの江戸無宿伊佐次の子分
他ににしき愛、朝峰ひかり、高央りお、しのぶ紫などを物語の主軸の周辺に配した配役だ。

彩りにといっては失礼かもしれないが、松本悠里が出ていることも植田作品に厚みを加えている。
しかし今に始まった配役手法ではない、従来からの植田紳爾型だ。

植田作品は場面のバックミュージックも重要な要素をなし、
それにより宝塚調の舞台を作り上げているのだ。

今回は伊佐次とおしまが互いに愛を確かめ合う場面の音楽がそうだ。
甘く切なくベルバラ調のメロディーだ。


上記に書いた配役があれば芝居は間違いなく出来上がっていく。そこが座付き作者の妙味さだ。
悪党の轟を捕まえにきたという湖月は、実は轟の幼馴染だけに、逃がしにきたのだ。
そこに
偶然、幼馴染の壇が現れ瞬時の愛の世界が生まれる。
壇はこれで退団、植田紳爾は退団する生徒に二つの手法を使う、
一つは未来が有る人は旅立ち、無い人は殺してしまう。

今回は轟と一緒にしないで別れさすのだ。堺に帰るという旅立ちだ。
轟はクールさの中で時に甘い感じをみせるが、
歌い方にしてもなんとなく杉良太郎の風貌を感じさせるから興味深い。
轟は植田紳爾の芝居に作り方を心得ているから、芝居の作り方もそのはしょり方も上手い。
壇に恋焦がれはじめつつ万里を好きだという男の演じ方は
老獪だ。
でも言い換えればそれが宝塚の男役の見せ方、
つまり本の不足部分をトップスターが見せきっていく、補うのがここの本領だろう。
これを承知で演じさせたくて植田紳爾は轟を起用したのだろう。


湖月は情熱を秘めた江戸っ子堅気の男だ。
壇に対しての愛情を我慢して轟に壇を差し向ける。
青臭さを感じさせる、この辺りの男気が裕次郎風貌を感じさせる。

湖月の芝居は細かい段取りの中、芝居を作るというものではない、
そのため岡引の心と友情の板ばさみ的細かい感情の表現がないのが残念、
台詞でそれを出そうとする所に、見せ場見せ場を見失う。
それは壇も同じことが言える。ともに繊細な心の感情表現があると、

更に情緒がかもし出されるのだ。

ある劇評では追う側と追われる側の人生の分岐点に触れた方が
ドラマに深みが増しただろうというが、言うはやすしでそこまですると説明芝居になる。

何故をはしょり見せるものを作るのが演出家の腕だろう。
植田紳爾の芝居のつくり方は洋でも和でも新派調なのだ。
あの、「私はフランスの女王ですから」という名台詞もその言い方も新派調だ。
こうした事を心得ている生徒は植田芝居を巧みに演じていく。

冒頭の松本悠里が踊る場面、長崎の蛇おどりなどが長いと言う意見もあるが、
これも
一つの宝塚の特徴を感じさせる場面で時間的に十五分ぐらいであり、
改めて見てこれがないと宝塚風の舞台にならないと感じた。
かたや何時までも松本悠里に頼っていると次発が生まれない要因にもなる。

事実次のトップはというとき舞台を見渡してもいないのが実情、
数年前までは存在していたのに。

これも歌舞伎好みの植田流で轟、湖月に上下に立たせて見栄を切らす所など心得すぎる。
これはファンサービスだ。
かつてトップスターを専科にしてという考えは麻路さきのときに植田紳爾は考え、
その時のまま実行している、当然トップの上にトップがいるという事になり、
この見栄の切らせ方もその辺りを考えてかなと穿った見方をしてしまうのだ。


単純明快に男同士の幼馴染の強い絆で結ばれた友情愛という愛、
それに淡白ながら男女の愛を織り交ぜ、宝塚の永遠のテーマである愛を描いているだけに、
久々にちゃんとした物語の宝塚の舞台を見たなという印象だ。

大人が演じている宝塚歌劇か。物語のはしょり方も違和感を感じない。

生徒の刀のさしかたは合い変わらず下手だが、それぞれが舞台人らしく見えたのは成果ありだろう。
生徒の芝居の流れの中の良い物を上手く使いあげていく植田流儀の成果だ。

着物とか髪型とか化粧とか何か中途半端なのだ。それぞれの生い立ちがあるだろう。
これがまとまると轟の悪党の心の中に友情がある感じが子分を伝わり表現できるのではないか?

やはり植田紳爾か、誉め殺し的劇評になったがこの人を早く追い越す演出家が出てきて欲しいが
当分出そうも無いからだ。

宝塚歌劇は本がしっかりしていればあとは生徒が作り上げてくれるが、本来の気風なのだ。

最近の劇評は例えば漫画やオペラなど多彩な分野の作品に取り込んできた宝塚とあるが、
今更のことでない、過去の作品を調べて欲しい。

新国劇と比較も論外で、メディアはすぐに何かと比較する癖がある。
その昔メディアが歌舞伎に人気が無いから、台詞を現代風にしたらといい、
現代風にしたら歌舞伎で無いよと笑われた話がある。

野球の野村監督でないがピッチャーの癖を見抜くように、
メディアも演出家の癖を見抜いていないといけない。

そして判りやすい言葉で表現すべきだ。
よく孤高、蜃気楼、タペストリー、王道、体現、きっ抗<拮抗>、両性具有、
体現、良質、骨太などの言葉を使いたがる。孤高の横綱ならわかるが。

自分独自の表現言葉をつくりいうのなら理解できるのだが。

     「ソウル・オブ・シバ」

作演出 藤井大介 作曲 編曲 高橋 城 斎藤恒芳 青木朝子
 大田 健 
振付 羽山紀代美 御織ゆみ乃 平沢 智 ANJU 若央りさ 
装置
 新宮有紀 衣装 任田幾英 照明 勝柴次朗    

藤井大介のショウ「ソウル・オブ・シバ」を見た。
この世に舞いを生み出したシバ神が一人の青年にダンスの精神を伝える為に
地上に降りてくるというテーマだが、構成が明確でなく何を表現したいか不明で
舞台にメリハリが無く
雑然のままで終わる。
ショウの大切さは何を表現させるか、どんな振りにするか、
宝塚のショウはダンサーも背景の一つという事も忘れてはいけない。
それが個々の命でもあり他では出来ない事の一つでもある。
場面ごとに楽しませる、見せる舞台こそショウなのだ。
次から次に湧き出してきて見せる、生徒は揺れるだけでもいい、
それに美しい衣装が重なり合い舞台を作り上げる。
衣装の色合い、デザインと最近はトータルで考えられていない。

本当の宝塚のショウが見たいのだ。
ショウの舞台の振りにそぐわない振り付けも見受けた。宝塚を知らないのではと。
それに全体通して振りがばらばらなのが更に散漫さに拍車をかけた。

最近の宝塚の振りは単調で幾何学的な動きが舞台の上で表現されないのが残念だ。
しかも昔の振りを持ち出している感じを強く受けるのは私だけだろうか?
直線的ばかりだ。かっての喜多弘、岡といった人たちの振りを見つめなおして欲しい。
ショウの終りはロケット、そして大階段から降りてきてフィナーレと決まりを明確に作る
定番ながらこれで結果オーケイになるのだから。伝統の決まりは守って欲しい。


かつて亡くなった市川理事長は大階段とフィナーレの無い作品を作った演出家に、
この二つをしないなら、辞めていただきますと言った有名な話がある。


宝塚大劇場 観劇 2005年6月9日 11時公演 4列43番 10000円 チュー太


                          トップページへ戻る
  
                          次へ